万民恐怖と言われたくじ引き将軍 足利義教

元僧侶(史上初)のくじ引き(史上初)将軍

室町幕府第6代将軍、足利義教(あしかが よしのり、1394-1441)

もういちど読む山川日本史によると、
・くじ引きで将軍に選ばれた
・正長の土一揆を目の当たりにし、将軍権力の強化と守護大名を抑え込む政策をとった
・守護大名の反感を買い、1441年に播磨の守護大名赤坂満祐に殺される(嘉吉の乱)

と、あっさりした記述となっています。

これといった功績のない、ぱっとしない将軍というイメージですが、
実は、室町将軍で最も重要な人物かもしれません。
少なくとも、サラッと流すことはできません。

義教は、3大将軍義満(1358-1408)の子で、初代尊氏のひ孫にあたります。
はやいうちに後継者候補から外れ、1408年に得度し、義円(ぎえん)と名乗ります。
1419年に天台座主(てんだいざす)となり、一時大僧正も務めます。

天台座主とは、比叡山のトップのことです。
というと、宗教的なリーダーで、ダライ・ラマのような穏やかな感じをイメージしますが、
当時の比叡山は、周辺国の近江や越前二項お題な荘園を持ち、
京都の金融業者である土倉の80%は、延暦寺が抑えていたなど、圧倒的な経済力を有していました。

その経済力を背景に、僧兵という軍隊も保有しており、大名と言っても過言ではない影響力を持っていました。

「京都はウチのシマだから」という意識を、比叡山の人たちは持っていたに違いありません。

義教が将軍になる前、つまり5代目は足利 義量(あしかが よしかず1407-1425)でしたが、実権は義量の父で、4代将軍の足利 義持(あしかが よしもち 1386-1428)が握っていました。

1425年、義量が19歳で急死しますが、その後征夷大将軍は誰も就かず、すでに出家していた義持が実権を握ります。

1428年、義持の容態がいよいよ危険になりますが、義持は後継者を決めませんでした。
重臣たちに後継者の意向を聞かれた義持は、「ワシが決めても、守護大名が従わなかったら意味ないじゃん」というような言葉を残しています。
義満がある程度将軍の独裁権を確立していましたが、義持はうまく行かなかったようです。

結局、重臣たちが、義持の弟4人を将軍候補とし、くじ引きで決めることとなり、義持も了承します。
義持の死後、石清水八幡宮でくじ引きをし、義円が選ばれます。
ちなみに、他の候補者(義円の兄弟)も、有力寺院の要職を抑えています。

義円は還俗し、一旦義宣(よしのぶ)と名乗り、
1429年に、さらに義教へと改名し、征夷大将軍になります。

守護に頼っていた軍事を改め、将軍直轄の奉行衆を組織します。親衛隊のようなものです。
いざというときに、将軍の意のままに動く軍隊を手に入れます。

九州探題は、渋川氏が世襲していましたが、九州探題に反抗する=幕府に反抗する勢力である、少弐氏や大友氏などが争う、幕府の威光も何もあったものじゃない状態となっていました。

義教は、大内持世(1394-1441)を使い、義満でもできなかった、九州統一を成し遂げます。

偉業か悪業か 比叡山を徹底攻撃

元・天台座主なので、古巣の比叡山には甘いと思いきや、
今まで誰もしなかったほどの厳しい処置を行います。

当初は、腹心の三宝院満済(1378-1435)や管領・細川持之(1400-1442)の言う通り、融和路線でしたが、延暦寺が天台寺門宗の園城寺を焼き討ちする事件が起こります。

激怒した義教は、数度に渡り比叡山を攻撃し、1435年には山門使節をだまし討ちした義教に講義した比叡山の門徒が延暦寺根本中堂に日をつけ、山徒24人が自決するという事件が起こります。

義教が直接火をかけたわけではありませんが、織田信長よりも先に焼き討ちしたようなものです。

この事件について噂をすることを禁じ、実際に行商人を斬ったりしています。
他にも、些細なことで激怒した義教により、流罪になったり、所領を没収されたりということが記録されています。

伏見宮貞成親王は『看聞日記』において、「万人恐怖、言フ莫レ、言フ莫レ」と書き残し、これが後々、義教の時代を表す言葉になります。

鎌倉公方を滅ぼす

鎌倉公方の足利持氏(1398-1439)は、自分が武士なのに、還俗した坊主が征夷大将軍になったので、幕府に対し良い感情を持っていませんでした。

元々、くじ引きで将軍を決めるほどの非常事態なのだから、自分が将軍になってもいいだろうと思っていたことでしょう。

鎌倉公方の家系は、元々尊氏の子から始まっているので、将軍家とはかなり近い血縁ですが、先代の足利氏満(1359-1398)から、幕府と鎌倉公方の対立は始まっていました。

持氏の下にいる関東管領の上杉憲実(1410?-1466?)は、持氏と義教の間を取り持とうとしましたが、持氏は、周りを主戦派で固め、憲実は関東管領を辞職します。

1438年、鎌倉を去った憲実を持氏が討とうとしたため、義教は持氏への攻撃を命じます。
結局、持氏は自害し、鎌倉公方は滅亡します(永享の乱)。

くじ引き将軍の最期

九州平定、比叡山焼き討ち、鎌倉府滅亡などの結果を残しましたが、
最期は守護大名の赤松満祐に暗殺されてしまいます。

一色義貫(1400-1440)、土岐持頼(?-1440)などが暗殺される事件があり、大勢力を持つ守護大名を警戒した義教による勢力削減策と言われています。

赤松氏も、弟の領地が遠縁の赤松貞村に与えられるなどしたため、「いずれ自分も殺されるのでは」と思い、殺られる前に殺った説があります。

「万人恐怖」と恐れられた義教ですが、赤松満祐の自邸に招かれた際、宴の最中に数十人の武者を乱入させ、あっという間に義教の首を取ってしまいます。
これを、「嘉吉の乱(または変)」といいます(1441年)。

将軍直轄の奉行衆という親衛隊を持っていながら、最期はあっけなく暗殺されてしまいます。

義満の時代のような、将軍が圧倒的な権力を握る時代に憧れ、実際にほぼ成し遂げました。
実際、この後の室町幕府は、将軍が若死にしたり、政治に興味を失った時代になると、戦乱に襲われることになります。

最悪の将軍という評価を下す人もいるようですが、恐怖政治により安定をもたらした(もたらしかけた?)という評価をする人もいます。
  

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