江戸時代の感染症、パンデミック 幕府の人道的(?)対応

江戸時代は、インフルエンザや麻疹が、何十回と流行しました。

幕末の1858年には、コレラも流行しています。

ウイルスや細菌が知られていない当時、万単位の死者が出たりしています。

江戸は、広くてゆったりの武家地と比較して、狭いところに町人地が押しやられています。
町人地の人口密度は、1平方kmあたり、4万~10万人ともいわれています。

タワマンなんてない時代、長屋はせいぜい2階建て
それこそ人がひしめき合って生きていたことでしょう。

江戸時代の感染症、幕末ともなると、コレラが流行します。

極端に人口が集中した江戸の被害が大きく、火葬もできないくらい死者が増えたそうです。

鎌倉時代あたりだと、飢饉のときには遺体がそこらじゅうに放置された状態だったという記録があるので、さすがに時代が下って少し進歩していたようです。

参考:鎌倉時代の飢饉、大地震

江戸時代の自粛

インドのガンジス川流域の風土病だったコレラが、イギリスがインドを植民地化したことにより、世界的に流行します。

日本へも、長崎から上陸し、1822年の流行時は箱根で止まったものの、
ペリー来航後の1858年には、江戸に到達しました。

コレラの流行も、第二波、第三波ときたと言われており、
江戸での死者も10万人以上と言われています。

人が集まる銭湯、床屋、吉原の遊郭、料理屋などは、閑古鳥が鳴き、江戸中が不景気に陥り、生活に困る人が増える、ということが起こっています。

浮世絵師の歌川広重(1797-1858)も、コレラで命を落としたと言われています。

江戸時代の感染症対策(?)

コレラは、死亡率が高く、感染してから死亡するまでの期間が短く、「3日コロリ」と言われ、恐れられていました。

西洋医学が知られていたため、少しは医療も役にはたったでしょうが、当時はウイルスの存在が知られていません。
当然、ワクチンもありません。

医療が期待できないならば、人は神仏にすがります。

祭礼でもないのにみこしを担いだり、節分でもないのに豆をまいたり、正月でもないのに門松を飾ったりした事例があるそうです。

現代でも、コロナ禍にアマビエのイラストを描いたりしているので、それのもっと大掛かりなことが行われていたのが想像できます。

江戸時代の持続化給付金

「寛政の改革」で有名な、老中松平定信(1759-1829)は、
老中になる前は白河藩主で、東北で飢饉が起き、東北諸藩で多数の餓死者を出したものの、白河藩では1人の餓死者も出さず、名君と言われました。

飢饉や、それに伴う打ち壊しなどが起きないように、米を備蓄したり、生活困窮者に現金を支給したりしています。

江戸時代の生活保護みたいなものでしょうか。

また、飢饉などで米の価格が上昇(数倍に跳ね上がる)したときに、困窮者に米を配るような制度も整備されます。

1802年、江戸でインフルエンザが流行します。

長崎から上方(京都大阪)を経由し、江戸に到達しました。

インフルエンザの流行で、患者が爆発的に増え、仕事ができないものが増加し、
経済に支障が出ます。

このときには、感染しているかどうかに関わらず、その日暮らしの江戸市民に一律に現金が給付されました。

幕末には、飢饉や長州征伐などの軍事行動が重なり、兵糧としての米を幕府がかき集めたなどの理由で、米価が4倍にもなり、一揆や打ちこわしが頻発します。
多少の米や現金の給付はあったかもしれませんが、十分ではありませんでした。

このときの運動が、倒幕の遠因になったかもしれません。

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