承久の乱

承久の乱の結果(3行で)

日本史上初めて、朝廷軍と幕府軍がぶつかった
幕府により、上皇が流罪となった
鎌倉幕府の影響力が西国も波及した

承久の乱とは

1221年(承久3年)に、後鳥羽上皇(1180-1239)が鎌倉幕府執権の北条義時(1163-1224)に対し、討伐の兵を挙げた戦いです。

後鳥羽上皇は、『新古今和歌集』の編纂の他、武芸にも通じた天皇で、北面武士に加え、新たに西面武士を編成します。

1219年、源実朝(1192-1219)が暗殺され、源氏の将軍は断絶します。

この時点で、幕府の実権は、頼朝正室の北条政子(1157-1225)や執権北条義時(1163-1224)が握り、将軍後継問題などで、幕府と朝廷の関係が悪化します。

後鳥羽上皇は、源頼茂(1179-1219)を討ちます。
倒幕計画を察知したため、事前に殺されたという説が有力です。

1221年、後鳥羽上皇は、北面、西面武士や在京御家人、僧兵などを味方に引き入れ、義時追討の院宣を発します。

幕府ではなく、あくまで執権の義時を討つという名目ならば、武士たちはこぞって朝廷方につくであろうという読みがあったようです。

一方その頃、鎌倉では、さすがに朝敵認定されたので御家人の動揺もあったようです。
このときに、北条政子が御家人に対し、「皆心を一にして奉るべし~」と命じたことで、動揺が静まったと言われています。

『承久記』によると、北条政子が直々に演説したとされ、
『吾妻鏡』では、安達景盛(?-1248)が代読したとされています。

実際には、御家人たちはどちらが勝つかを冷静に状況分析し、多くが幕府についたというのが実態のようです。

幕府方は、箱根あたりで朝廷軍を迎え撃つ派と、積極的に京都に向かって出撃する派に分かれ、最終的に出撃することになりました。
軍勢を東海道、東山道、北陸道の三方面から出撃させました。

朝敵認定で油断していた後鳥羽上皇たちは狼狽し、急いで出撃させますが、戦力を分散させたため、各個撃破されてしまいます。

5月22日に鎌倉を出撃した幕府軍は、1ヶ月足らずで京都に侵入します。
朝廷側の敗北がはっきりした後、後鳥羽上皇は、罪を藤原秀康、三浦胤義などになすりつけようとしますが、後鳥羽上皇は隠岐島に流され、他にも皇族が流罪となりました。

これ以前にも、皇族が配流されたことはありましたが、
あくまで朝廷内部での決定で、幕府による配流は初となります。

上皇についた公家や武士の荘園は没収され、地頭が送り込まれました。
これにより、御家人の北条氏への忠誠度が一気に高まりました。

幕府による朝廷の監視を強めるため、六波羅探題が置かれました。
北条泰時(1183-1242)、北条時房(1175-1240)が北と南に駐留しました。
  

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