鎌倉時代の飢饉、大地震

寛喜(かんき)の飢饉

1230年から31年(寛喜2~3年)に渡り発生した、鎌倉時代最悪の飢饉です。

天候不順が続いており「安貞」から「寛喜」に改元された理由も飢饉でした。

「吾妻鏡」によれば、夏に美濃国や武蔵国で降雪を記録するなど、今では考えられない冷夏となり、逆に冬は、作付に影響するほどの暖冬となり、本来は田植えに使わなければならない種籾を食べ尽くしてしまうなどして作付もできない悪循環に陥るほど、食べるものがなくなりました。

餓死者があふれてそこらに放置され、食い詰めた流民が京都や鎌倉に押し寄せ、市中にも死体が満ち溢れたといいます。

当時の正確な統計はありませんが、人口の3分の1が減少したとも言われています。

この飢饉の影響か、1232年(寛喜4年)に貞永に改元されます。

正嘉(しょうか)の飢饉

1258年(正嘉2年)、冷夏と大型台風により大凶作となります。

平安京で人が人を食う有様となったという噂が広がったり、百姓の逃亡や餓死で、年貢の徴収や公事の停滞などが各地で相次ぎました。

1259年(正嘉3年)、正元に改元されます。

正嘉(しょうか)地震

1257年マグニチュード7.0~7.5、震源地は相模湾と推定される地震が発生。

死者などの被害は不明ですが、多数の神社仏閣が倒壊し、
東北地方に津波が発生したという記録もあるそうです。

鎌倉時代には、なぜか鎌倉に大地震が多く発生していたようです。

鎌倉大地震

1293年(正応6年)、鎌倉付近を震源とした、推定マグニチュード7の大地震です。
鎌倉の禅宗寺院、建長寺など、多数の神社仏閣が倒壊。
死者は2万人以上と言われています。
この地震の混乱に乗じ、執権・北条貞時(1272-1311)は、実権を握っていた平頼綱(1241-1293)を討伐します(平禅門の乱

この年の8月5日に、永仁に改元されます。

鎌倉時代は、災害や飢饉による社会不安が広まり、新しい仏教が庶民の間で広がったと言われています。

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