室町時代の政治体制

室町幕府初期の三代で、政治の基礎が固まる

初代の足利尊氏(1305-1358)が、征夷大将軍になった当初、
尊氏は、征夷大将軍として軍事権と恩賞権をにぎり、

弟の足利直義(あしかが ただよし 1306-1352)との二頭政治と言われていますが、
実際の政治は、足利直義と、幕府執事の高師直(こう の もろなお?-1351)が担っていました。

この頃の尊氏の評価は、あまり高くありません。

二頭体制は、徐々に歪みを生み、
直義派と師直を中心とする反直義派とで、
観応の擾乱(かんのうのじょうらん)が起こり、
結果として、足利直義と高師直の両者が死んでしまいます。

観応の擾乱の前後から、尊氏は嫡子である足利 義詮(あしかが よしあきら1330-1367)と共同で、自ら政治を執り行うようになります。

この頃の尊氏は、「やればできるじゃねーか」と評価されています。

1358年に、尊氏が亡くなり、義詮が征夷大将軍に就任します。
南朝方との交戦や、有力な守護大名を抑えているうちに、
1367年に、義詮が38歳でなくなってしまいます。

跡継ぎの足利義満(1358-1408)は、10歳で足利将軍家の家督を継ぐことになります。
2代目の義詮は、わずか9年間の権力者でしたが、
義満は12歳で征夷大将軍になり、途中で将軍職を譲り大御所になっても最高権力者で有り続け、39年間権力の座につきます。

義満の時代に、南北朝時代が終止符を打ち、大勢力を持つ守護の力を削減し、
現代人が想像するような、将軍が最高権力者っぽい状況になります。

初代尊氏、2代義詮の時代には、
南朝方に京都や鎌倉を一時的にせよ占領されたりしています。
とても、幕府の力が安定しているとは言えません。

また、義満以降は、将軍が子供のうちに亡くなったり、暗殺されたりして、
だんだん将軍のちからは低下していきます。
応仁の乱以降は、幕府は名目だけの存在になります。

室町時代の政治体制

室町幕府の政治は、鎌倉幕府をだいたい引き継いでいます。
執権の代わりに「管領」職が置かれ、
足利一門の細川氏、斯波氏、畠山氏が交代で務めました。

侍所は、京都の警察及び裁判所の権力を兼ねたようなところで、
長官であるところの「所司」四職と呼ばれる、赤松氏、京極氏、山名氏、一色氏から選ばれました。

政所(まんどころ)は、幕府の財政などを司る職で、
1379年以降、伊勢氏が世襲します。

鎌倉府

将軍の本拠地が鎌倉(関東)から、京都(畿内)に移ったため、
鎌倉府が関東10カ国(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・上野・下野・伊豆・甲斐)を統括することになります。

今で言うところの関東地方、山梨県、静岡県の伊豆地方ですね。

鎌倉公方、関東管領の下に、
侍所、政所、評定衆、問註所、引付衆などの組織がありました。

幕府と遜色のない機能があるようにも見えます。

足利氏の幕府も、鎌倉に置かれる構想があったのではないかという説もあります。

鎌倉府の長官が鎌倉公方で、
足利尊氏の四男、足利 基氏(あしかが もとうじ 1340-1367)
の子孫が世襲するようになります。

将軍の補佐に管領がいるように、
鎌倉公方にも、関東管領という補佐が付きます。
こちらも、上杉氏(足利一門ではなく、藤原氏の支族)が代々世襲していきます。

九州探題

鎌倉時代の鎮西探題を踏襲
九州を統治、李氏朝鮮との外交なども担当
足利一門の渋川氏が世襲

奥州探題

1400年 大崎詮持が任命され、以降、大崎氏が世襲(これまた足利一門)

羽州探題

足利一門の最上氏が世襲→最上氏は後に戦国大名に

有力どころは、足利一門で固めており、
反乱が起こらないように気を配っている感じですが、
「遠くの親戚より近くの他人」ということでしょうか、
鎌倉府などは自立傾向が強く、将軍家と対立しています。

最終的には、1454年の享徳の乱で、
鎌倉府は滅亡します。

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