江戸幕府第5代将軍 徳川綱吉 年表
1646年 3代将軍・徳川家光の四男として江戸城に生まれる
1651年 8月、兄・家綱が将軍宣下
1651年 8月、元服し、従三位・左近衛中将・右馬頭に叙任
1657年 明暦の大火
1661年 上野館林藩主25万石の大名となるが、江戸に居住し続ける
1680年 5月、家綱の養嗣子となる
1680年 5月、将軍宣下
1681年 堀田正俊を大老に任ずる
1682年 勘定吟味役を設置
1684年 堀田正俊が刺殺される 以後、牧野成貞、柳沢吉保などの側用人を重用
1687年 生類憐れみの令
1690年 捨て子禁止令
1690年 湯島聖堂建立
1695年 奥州の飢饉
1698年 江戸で勅額火事(死者3000人以上)
1701年 刃傷事件の赤穂藩主・浅野長矩を即日切腹
1703年 元禄の地震、火事
1704年 浅間山噴火
1707年 宝永地震、富士山噴火
1708年 京都、宝永の大火
1704年 甥の徳川綱豊(家宣)を後継者とする
1709年 死去 死因は成人麻疹
生類憐れみの令でイマイチな評価の綱吉
歴史的に、綱吉暗君説が根強いですが、近年では再評価されています。
「生類憐れみの令」は、蚊を潰しただけで流罪になったとか、極端な政策といわれていますが、「捨て子禁止令」など、人道的な政策も行っています。
治世の後半で、地震や火事、噴火などの災害が集中したのも不運でした。
当時は、儒教が盛んで、自然災害は為政者の不徳によるもの、という考え方があり、綱吉の評価を下げる原因になった面もあります。
故障者続出で最下位になった責任を取らされたスポーツチームの監督みたいなものでしょうか。
『忠臣蔵』や『水戸黄門』などの、後世の創作も影響しているかもしれません。
あまりいい役では出てきませんしね。
文治政治を推進し、庶民の経済力が上がり元禄文化が花開きました。
1700年頃の日本の人口は、2800万人前後と推定され、
江戸幕府が始まった100年前と比べて1.4~2倍と推定されています。
その後、幕末(推定3300万人)までは緩やかな人口増加となっております。
人口の増加を見るに、初期の100年で平和を達成し、高度成長を実現したように思えます。