明治時代初期の外交
岩倉使節団 1871年、岩倉具視ほか、総勢107人で欧米諸国をめぐり、進んだ制度や文化を学び、1873年に帰国しました。
1871年 中国の天津で、外国とのはじめての対等条約となる、清と日清修好条規を結びました。
1875年、ロシア帝国との間で樺太・千島交換条約を結び、樺太(サハリン)がロシア領、千島列島は日本領となりました。
1876年、日本は小笠原諸島の領有を各国に通告しました。
鎖国政策を行っていた李氏朝鮮に対し、西郷隆盛(薩摩出身)、板垣退助(土佐出身)らは武力で開国を迫ることを主張しましたが(征韓論)、大久保利通(薩摩出身)らの反対にあい、政府を去りました。
1875年、江華島沖を測量していた日本の軍艦が、朝鮮軍から砲撃されるという、江華島事件をきっかけに、1876年に日朝修好条規を締結しました。
立憲政治
江戸時代の武士は、明治になり「士族」とされましたが、特権を失いました。
不満を持った士族は、各地で明治政府に対して反乱を起こしました。
西郷隆盛を中心として鹿児島県で発生した西南戦争(1877年)は、最大の士族反乱でしたが、政府軍は近代的な軍隊で勝利しました。
政府を去っていた板垣退助らは、『民撰議院設立建白書』を提出し、憲法の制定、議会の開設、言論の自由などを求めて全国各地で自由民権運動が起こりました。
1889年に大日本帝国憲法が制定され、1890年に帝国議会が開かれました。
初代内閣総理大臣 伊藤博文
1882年、伊藤博文は明治天皇に憲法調査のためにヨーロッパに送られました。
皇帝の権力が強いドイツの憲法を学び、帰国後初代の内閣総理大臣となりました。