南北朝時代の流れと用語

南北朝時代
日本史上の南北朝時代(1337-1392)です。

中国にも南北朝時代(439-589)があります。
紛らわしいので注意。

持明院統、大覚寺統とは

南北朝時代が始まる80年くらい前から、
問題の火種が始まっています。

88代天皇、後嵯峨天皇(1220-1272)の
後継者問題です。

後嵯峨天皇の3人の皇子のなかで、
長子の宗尊親王(1242-1274)は、
鎌倉幕府の第6代将軍となります。(宮将軍、皇族将軍などと言われます)
長男でしたが、母方の身分が低く、天皇にはなれなかった模様。

次子の後深草天皇(1243-1306)が、第89代天皇として、
1246年に践祚。
この後深草天皇が、持明院統の祖となります。

後嵯峨天皇は存命で、上皇となって権力を持っています。

後深草天皇は病気がちだったため、後嵯峨天皇の要請により
弟の亀山天皇(1249-1305)に譲位

この亀山天皇が、大覚寺統の祖となります。

両統迭立とは

ここから、天皇とか上皇とかややこしくなるので、省略します。

後嵯峨が存命時(1268年)、
後深草に男子(煕仁親王、4歳)がいるのに、
亀山の子供(世仁親王、2歳)を皇太子とします。

この措置は、後嵯峨は大覚寺統に皇統を継がせる意図があるように見えますが、
結局、その意志をハッキリ伝えなかったため、後に禍根を残すことになります。

後嵯峨死後、亀山は、世仁(後宇多天皇)に譲位します。
これが定着すれば、現代の受験生が南北朝時代のややこしさに頭を悩ませることもなかったのですが、後深草側は不満です。
幕府に働きかけて、後深草の皇子を、後宇多の皇太子とします(後の伏見天皇)。

これ以降、大覚寺統と持明院統が、交互に天皇を出すことになります。
これを、両統迭立(りょうとうてつりつ)といいます。
「迭」の字を「送」と書き間違えないように注意しましょう。

意外と、この時期の天皇は、競争相手がいるためか
堅実な政治をしています。

後嵯峨天皇から数えて8代目、
第96代の後醍醐天皇(1288-1339)は、
94代後二条天皇(1285-1308)の異母弟です。

後二条在位時には、
後深草
亀山
後宇多
伏見
後伏見
という、5人の上皇が存命でした。

後二条は、在位7年で崩御してしまい、
皇子の邦良親王が若かったことから、
後醍醐が中継ぎとして即位します。

いずれは、甥である邦良に譲位しなければいけない立場でしたが、
自分の子供に継承したい後醍醐は、
両統迭立を指示した幕府を倒そうとします。

2回ほど失敗して、隠岐島に流されたりもしましたが、
御家人の心が離れた幕府は、結局倒れます。

天皇親政を開始しましたが(建武の新政)、
武士の心をつかめず、結局足利尊氏に敗れ、
吉野に逃れます。

南北朝分裂と合一

足利尊氏は、京都で光明天皇(1322-1380)を推戴します。
吉野に逃れた後醍醐は退位していません。
これにより、二人の天皇がいる状態になります。

京都と吉野は直線距離で70km弱
現代では、近鉄で2時間ほどで行ける距離です。

北朝派と南朝派は、全国で争うようになります。

後醍醐没後、南朝の勢いは衰えましたが、
結局、南北朝の分裂は60年ほど続きます。

室町時代の最初の60年がこんな状態なので、
なんとなく室町幕府の力は弱かったのではというイメージを持ってしまいます。

室町幕府も最初の頃は将軍が絶対的な権力を握っていたわけではなく、
3代目の足利義満の時代に、支配体制が固まってきます。

南北朝合一の条件に、両統迭立がありましたが、
実質は、持明院統(北朝)の天皇が継続していきます。

現在の皇室は、持明院統の子孫ということになります。

これ以上シンプルに書けない南北朝時代の天皇

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