江戸時代の一揆

江戸時代といえば、百姓一揆?かどうかはわかりませんが、
百姓一揆というと江戸時代、という感じがします。

これまでに知られている百姓一揆は、3000件以上!と言われています。
江戸時代265年とすると、1年で10件以上です。

平均的に一揆が起こっていたのではなく、江戸時代の前半よりも後半のほうが、百姓一揆の件数が増えています。

江戸時代が始まって100年ほど経った1707年(宝永4年)に富士山が噴火し(宝永大噴火)、田畑は耕作不能になり、飢饉が発生しました。

1732年(享保17年)、西日本をウンカなどの害虫が襲い、餓死者1万2000人、飢餓に苦しんだ人が250万人友いわれています(享保の大飢饉)。

江戸時代初期の一揆の形態としては、村役人や有力農民が代表して訴える、代表越訴(おっそ)型が主流でした。

18世紀頃になると、村役人から水呑百姓にいたるまでの農民が一致団結して一揆を起こすようになりました。
これを惣百姓一揆(そうびゃくしょういっき)といいます。

村役人と平百姓が対立する村方騒動や、都市部では打ちこわしが盛んになりました。
打ちこわしとは、飢饉になると、商人が米を買い占めることで米の価格が上昇したりしたため、起こった民衆が襲撃したということです。
現代で言えば「転売屋」を襲撃するようなものでしょうか。

幕末に入ると、一揆の件数が一気に上昇します。
この時代の一揆は、世直し一揆と呼ばれます。

開国により物価が上昇したり、政情不安で米の買い占めが起こり、貧しい人たちの生活が苦しくなりました。

世直し一揆とは言うものの、生活改善を訴えるものが多く、政治的な要素は少ないですが、結果的に江戸幕府が倒れたため、世直しの一面はあったのでしょう。

江戸幕府が倒れて明治新政府になると、一揆の攻撃対象は新政府に移ります(徴兵や地租改正などに反対)。

江戸時代の一揆は、代表越訴→惣百姓一揆→世直し一揆と変化したというふうに覚えれば、受験の役にはたちます。

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