本当は鎖国ではない?江戸時代の外交

最近の学校教科書では、江戸時代の「鎖国」という言葉を使わないそうです。

徳川家康の時代は、むしろ、貿易を積極的に行っています。

オランダ人のヤン・ヨーステン(1556?-1623)は、江戸に住み、日本人女性と結婚します。
イギリス人のウィリアム・アダムス(1564-1620)は、三浦按針という名と、武士の身分が認められます。

家康は、海賊は取り締まるが、貿易や人の移動は制限していなかったようです。
呂宋助左衛門、山田長政のように、東南アジアに進出した日本人もいました。

キリスト教に関しても、当初は禁止していませんでしたが、新たに日本との貿易をしたいオランダやイギリスの忠告もあり、1612年に幕府直轄地でのキリスト教禁教令を布告します。

有馬晴信(1567-1612)が切腹し、キリシタン大名はいなくなりましたが、信者の処刑というような、徹底した弾圧はこのときはしませんでした。

その後、1616年に、京都の六条河原で52人のキリスト教が処刑(キリスト教側では殉教)、1622年、長崎で55名を処刑(元和の大殉教)など、公開処刑が行われると、逆に、宣教師たちが日本への潜入や潜伏は跡を絶ちませんでした。

島原の乱(1637-1638年)など、キリスト教は見つけ次第殺せ的な政策のようにも見えますが、幕府の方針は、拷問による棄教(改宗)で、処刑よりも、拷問中の死亡や棄教する方が多かったようです。

1616年、徳川秀忠の時代に、幕府は中国以外との貿易を長崎・平戸に限るという「二港制限令」を出し、貿易の利益を幕府が独占することを狙いました。

3代将軍、徳川家光の時代の1639年に、ポルトガル船の来航を禁止します。
1641年に、オランダ船、中国船に限り、長崎の出島で貿易を認めました。

このような記述を見ると、相当な引きこもり体質になってしまったように見えますが、他にも

薩摩と琉球

松前とアイヌ、ロシア

対馬と朝鮮

という交易ルートがあり、長崎と合わせて 「四つの口」体制といいます。

また、オランダ商館長に、毎年「オランダ風説書」という報告書を出させ、これにより幕府は西洋の情報を知りました(オランダフィルターが掛かっていますが)。

海外からの知識は、蘭学の発達を促しました。

参考:江戸時代の蘭学

江戸時代には、李氏朝鮮と正式な国交があり、「朝鮮通信使」が12度も江戸に来ています。

琉球からも、琉球王即位の際に謝恩使、徳川将軍交替の際に慶賀使が江戸に来ています(計18回)。

窓口が4箇所あるなら、「鎖国」と呼べる状態ではないのでは?ということで、歴史の教科書でも、使わない方向にあるようです。

とはいえ、貿易の利益や海外の情報を、幕府がある程度独り占めしていましたし、日本人が海外に出ていくのは禁止でしたので、江戸時代の間に日本人がだいぶ内向きになってしまった原因を作ったのでは?とも思います。

それに、海外から船が来るのはいいけど、自分たちは国内でしか船で行かないので、北前船のような船で200年これと言って変化しませんでした。

もちろん、国内物流が活発になったので、江戸時代以前よりは経済力が向上しましたが、海外はでかい船で頻繁に行ったり来たりしてますからねえ、幕末ともなると、蒸気船がやってきて、開国せざるを得ない状況になります。

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