戦国時代の北条氏五代

北条早雲(1456-1519)

本当の名前は、「伊勢盛時」説が有力ですが、諱がよくわからないということ自体、下剋上を体現している感じがします。

長氏、氏茂、氏盛説もあります。

また、88歳まで生きたというのが以前の定説でしたが、近年では64歳説が有力だとか。

また、将軍申次という幕臣であったとして、早雲が一介の素浪人から戦国大名に成り上がったという定説は崩れつつあります。

とはいえ、既存の守護大名を滅ぼして、戦国大名になったのは間違いありません。

「伊勢新九郎盛時」の名が初めて出てくるのは、1481年で、2年後の1483年、9代将軍足利義尚(1465-1489)の申次衆になっています。

駿河の守護、今川義忠(今川義元の祖父、1436-1476)の妻、北川殿と早雲が兄弟であり、義忠が家臣の襲撃を受けて討ち死にすると、嫡男の龍王丸(今川氏親 1473-1526)が幼少だったこともあり、家臣の間で内紛が起こります。

龍王丸の擁立に反対する一派は、小鹿範満(義忠の従兄弟?1487)を担ぎ上げます。

これに堀越公方足利政知と扇谷上杉家が介入し、それぞれ上杉政憲(?-1487)、太田道灌(1432-1486)に兵を率いさせて駿河国に向かわせます。
どちらの勢力も、範満派だったと言われています。

このときに、早雲が駿河に行き、紛争の調停をし、龍王丸が成人するまで範満を家督だ行こうとする、ということで話がまとまります。

しかし、龍王丸が15歳になっても、範満が家督を戻そうとしなかったため、早雲は再度駿河へ下り、範満を倒し、龍王丸は氏親と名乗り、正式に当主となります。
早雲は、伊豆の近くに領地を与えられます。

堀越公方、足利政知(1435-1491)は、享徳の乱などの混乱により、伊豆を支配しているにとどまっていました。

政知は、後継者を長男、茶々丸ではなく、三男の潤童子としましたが、政知の死後、茶々丸は潤童子と継母を殺し、実質的に堀越公方となります。

しかし、茶々丸が重臣を惨殺するなどして、旧臣の支持を失い、早雲などが攻めてくると滅ぼされます(伊豆討入り)

伊豆を平定した早雲は、年貢を四公六民とするなど善政を行ったため、伊豆一国が30日で平定されたと言われています。

1495年、早雲は相模の大森藤頼(?-1503)を攻め、小田原城を陥落させます。
後に北条氏の根拠地となる小田原城ですが、早雲の本拠地はずっと伊豆韮山城でした。

1516年、三浦氏を滅ぼし、相模の国をほぼ平定します。
早雲寺殿廿一箇条』を制定、分国法の先駆けと言われています。

北条氏綱(1487-1541)

早雲の跡を継ぎ、武蔵半国、下総の一部、駿河半国まで領土を拡大します。
山内上杉氏、扇谷上杉氏の勢力を関東から追い出すことに成功します。

1523年、伊勢氏から北条氏へと名字を変えています。
鎌倉時代の執権、北条氏と区別するため、「後北条氏」ともいわれますが、
正式には、「北条」です。

また、本拠地を小田原城に移したのも氏綱です。

北条氏康(1515-1571)

初期は、今川義元と山内上杉氏、扇谷上杉氏が敵となり、ピンチを迎えますが、1554年に甲相駿三国同盟を結び、危機を脱します。

1560年、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、今川氏の勢力が衰え、1568年には武田信玄が駿河に侵攻、三国同盟は破綻します。
これにより、今度は上杉謙信と越相同盟を結びます。

北条氏政(1538-1590)

1559年に家督を継ぎますが、氏康存命中は、両頭体制とも言える状態です。

父、氏康の死後、武田との同盟が復活し、上野国、下総国、上総国に勢力を伸ばし、後北条氏最大版図を築きますが、豊臣秀吉に攻められ、切腹します。

北条氏直(1562-1591)

1580年に家督を継ぎ、後北条氏5代目当主となります。

1582年3月に武田氏が滅亡すると、甲斐国は織田領になりますが、6月に本能寺の変が起こり、甲斐国を治めていた河尻秀隆(1527-1582)が討たれる事態となります。

氏直は、叔父の北条氏邦(1548-1597)と共に甲斐に攻め入り、徳川家康軍と対峙します(天正壬午の乱)。

最終的に、上野国を北条、甲斐、信濃国を徳川領とすることで決着します。

1587年、豊臣秀吉が惣無事令を発令しましたが、1589年、名胡桃城奪取事件が起き、惣無事令違反として、小田原征伐が起きます。

1590年、後北条氏は降伏、氏政、氏照は切腹となりましたが、
氏直は許され、高野山での謹慎を命じられます。

滅亡したけど存続した後北条氏

氏親に子がおらず、弟の北条氏規(1545-1600)が跡を継ぎ、江戸時代になると、長男の北条氏盛(1577-1608)外様大名、河内国狭山藩(1万1000石)の初代藩主となります。

関東のほぼ全域を支配していた時代と比べたら、100分の1以下でしょうが、
ともかく、お家は続きました。

幕末まで存続し、12代目藩主、北条氏恭(1845-1919)は、華族に列せられました。

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