鎌倉幕府の滅亡から室町幕府成立まで

鎌倉幕府の滅亡~建武政権~室町幕府の成立

鎌倉幕府の滅亡は1333年ですが、
その60年ほど前、元寇(モンゴル帝国の来襲)あたりから
御家人の没落が始まり、これが、鎌倉幕府の終わりの始まりと言われています。

元寇は2回ありました。
文永の役(ぶんえいのえき・1274年)
弘安の役(こうあんのえき・1281年)

神風が吹いたとかで、なんとか日本側は撃退しましたが、
防衛戦争だったため、御家人への恩賞は、なし。

せっかく、元寇への動員により「奉公」をしたのに、
これといった「御恩」がなかった
要するに、タダ働き。給料不払いみたいなことが起こったので、
御家人たちの不満が高まります。

幕府を直接支える御家人の力がおとえていきます。
・元寇時の負担
・惣領制=分割相続制による中小御家人の零細化
・貨幣経済の進展

なんとなく、江戸時代の武士の困窮化に重なります。

鎌倉幕府の実権は、執権北条氏に握られており、
北条氏の得宗家が、守護の独占を進めるなど、
北条独裁を強め、さらに御家人の支持を失うようになります。

鎌倉幕府の内側のゴタゴタがあり、
自ら政治を行うことを志向する後醍醐天皇(1288-1339)による倒幕計画

1324年 事前に計画が六波羅探題に洩れて失敗 正中の変
1331年 元弘の乱 挙兵したが敗れ、隠岐島に流される
1333年 隠岐島から脱出し、挙兵
幕府側だった足利高氏(のちに尊氏)が天皇側に寝返り
新田義貞が鎌倉を陥落させて、北条氏を滅亡させる

北条家の最期の得宗、北条高時(1304~1333)は
後醍醐天皇方に鎌倉を攻められ、最期は自害します。

鎌倉幕府滅亡時の将軍は、守邦親王(後深草天皇の孫、1301-1333)
第9代将軍ですが、完全にお飾りで、倒幕側にも無視され、
鎌倉陥落後は出家したようです。

後醍醐天皇による政治は、建武の新政と呼ばれ、
この政府は建武政権と呼ばれます。

しかし、恩賞を倒幕に協力した武士に与えず、
御所の造営のために、庶民に負担を課したため、
結局御家人の支持が、足利尊氏(1305-1358)に持っていかれます。

楠木正成(?-1336)などの活躍により、尊氏は九州に追いやれれますが、
結局は正成を倒し、後醍醐天皇も吉野に逃れます。(建武の乱

1335年
7月 北条氏の残党が朝廷に反旗(中先代の乱
8月 足利尊氏が征東将軍として乱を討伐
9月 足利尊氏が建武政権から離反
1336年
1月 箱根・竹ノ下の戦いで足利尊氏勝利
3月 豊島河原の戦いで足利尊氏敗戦、九州に逃れる
7月 湊川の戦いで足利尊氏勝利
10-11月 近江の戦いで建武政権降伏

建武の新政からわずか3年後、京都の主は足利尊氏となり、
建武式目」の制定(1336年)により、室町幕府の成立とされています。

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