桓武天皇(737-806)は、第50代天皇で、781年に天皇に即位しました。
784年に長岡京、794年に平安京に遷都したときの天皇でした。
時代区分としては、奈良時代~平安時代です。
35年間の治世の間、歴代天皇の中でもトップを争うくらい、積極的に政治を行いました。
平城京→長岡京→平城京遷都
長岡京への遷都は、平城京の仏教勢力から逃れるためとも、水運に不便であった弱点を克服するためとも言われています。
桓武天皇は、長岡京遷都に際し、藤原種継(737-785)を重用します。
「中外の事皆決を取る」とまで評された種継は、事実上遷都の責任者となります。
遷都後間もない785年、種継は造営監督中に矢で射られ、翌日死去。
この藤原種継暗殺事件に連座して、死罪や流罪になった人たちが10数名にのぼり、その中には、桓武天皇の弟の早良親王(750?-785)も含まれました。
その後、桓武天皇は早良親王の怨霊を恐れたと言われています。
和気清麻呂(わけのきよまろ 733-799)などの建議もあり、平城京に再度遷都します。
平安京命名の際に、「山背国」から「山城国」に改名されています。
これにより、「城」という字を、「しろ」と読む原因になりました。
対蝦夷遠征
東北地方を安定させるため、3度に渡る遠征を行いました。
789年、紀古佐美(きのこさみ 733-797)を征東大将軍として、遠征を敢行しますが、蝦夷のアテルイ(阿弖流為)の反撃に遭い、失敗します。
794年、2度めの遠征では、征夷大使大伴弟麻呂(おおとものおとまろ 731-809)、征夷副使坂上田村麻呂(さかのうえのたむらろ758-811)による討伐が行われ、詳細は不明です。
801年には、坂上田村麻呂が征夷大将軍として遠征し、アテルイを降伏させ、京に護送する活躍をします。
803年に、田村麻呂が志波城(現在の岩手県盛岡市)を築いた時点で、蝦夷平定はほぼ完了しました。
平安京の造営と東北遠征が百姓を苦しめているとという藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ 774-843)の建言を容れて、中止しました。
また、唐や新羅が攻めてくるかもしれないというプレッシャーが弱くなってきたので、徴兵による軍団を解散し、健児(こんでい)制を導入したり、雑徭の負担を少なくするなど、民心の安定を図りました。
また、地方行政の引き締めのために、勘解由使の設置を行いました。