遣隋使の目的と成果

5回派遣された遣隋使

遣隋使は、推古天皇の時代、600年-618年の間に5回派遣されました。
隋の技術や制度を学ぶ目的でしたが、冊封は受けませんでした。

参考:飛鳥時代に権力を握った蘇我氏

『日本書紀』『隋書』のどちらかに記載されていたり、片方のみに記載されています。
『日本書紀』では、「隋」ではなく、「大唐國」と記載されています。
『日本書紀』『隋書』が完成した頃は、すでに唐の時代になっています。

600年の遣隋使が1回目の遣隋使と言われています。

『日本書紀』に記載はありませんが、『隋書』に記載があります。

607年、小野妹子が国書を持って派遣されます。(7年ぶり2回目)
聖徳太子が持たせたという国書に、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。・・・」などと書かれていたため、煬帝が激怒したとも言われています。

参考:隋滅亡の原因 煬帝の最期

中国の皇帝からしてみると、諸外国と対等の付き合いはありえないのですが(中華思想)、朝鮮半島との火種を抱えていたので、遠くの島国には吠えさせてやるかというところもあったのかもしれません。

608年4月に小野妹子は隋の使者、裴世清を伴って帰国します。

608年9月、再度小野妹子を隋に派遣(1年ぶり3回目)
高向玄理(たかむこのくろまろ)、南淵請安(みなぶちのしょうあん)、僧(みん)、倭漢福因(やまとのあやのふくいん)、恵隠(えおん)らの留学生を引き連れていきます。

609年9月に小野妹子は帰国します。
1400年前の船でも、1年で行って帰ることができたんですねえ。

留学生たちは、10年~30年以上中国に滞在しています。
倭漢福因 623年に帰国
僧旻 632年に帰国
恵隠 639年に帰国
高向玄理、南淵請安 640年に帰国

帰国後、留学生たちは、大化の改新後の政府の学者などに登用されています。

610年、『隋書』煬帝紀に、遣隋使の記載があるようです(2年ぶり4回目)。

614年、犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)などを派遣(4年ぶり5回目)。

『日本書紀』に記載があります。

これが最後の遣隋使と言われ、高句麗遠征を繰り返した隋では反乱が頻発し、618年に滅亡します。

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