飛鳥時代に権力を握った蘇我氏

蘇我稲目

蘇我稲目(506?-570)は、宣化天皇(在位536?-539?)の時代に大臣となり、娘の堅塩媛と小姉君を欽明天皇の妃としました。

用明天皇(在位585?-587?)は、欽明天皇の第四皇子で、母は蘇我稲目の娘・堅塩媛です。

崇峻天皇(在位587?-592?)は、欽明天皇の第12皇子。母は蘇我稲目の娘・小姉君です。

推古天皇(在位593-628)は、欽明天皇の皇女で、母は大臣・蘇我稲目の女・堅塩媛です。

用明天皇、崇峻天皇、推古天皇からみると、蘇我馬子(551-626)は叔父にあたります。

蘇我氏は、稲目の時代から仏教推進派であり、物部氏と政治的、宗教的に激しく争うことになります。

参考:仏教伝来はいつ?

蘇我馬子

蘇我馬子は、572年、敏達天皇の即位時に大臣となります。

592年に崇峻天皇を暗殺し、皇太后であった炊屋姫(推古天皇)を即位させます。

政治の実権は、大臣の蘇我馬子と摂政となった聖徳太子が握り、冠位十二階十七条憲法を定め、遣隋使を派遣するなど、大陸の文化・制度を吸収して天皇中心の国家体制の確立を図ったとされています。

蘇我蝦夷

蘇我馬子の跡を継いだ蘇我蝦夷(586?-645)は、引き続き権勢をふるいます。

推古天皇の崩御後、田村皇子を舒明天皇として即位させましたが、このときに対抗馬の山背大兄王を推した境部摩理勢(?-628)を殺害しています。

蘇我入鹿

蘇我入鹿(611?-645)は、642年に皇極天皇の時代に、存命中の父、蝦夷に変わり権力を握ります。

643年に山背大兄王(聖徳太子の子)ら上宮王家の人々を自害に追い込みます。

644年には、邸宅を「上の宮門(みかど)」「谷の宮門」と称し、自分の子女達を皇子と呼ばせるなど、専横もここに極まれりという感じになります。

しかし、その翌年中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らの乙巳の変により殺害され、蝦夷も自害し、蘇我氏の権勢は急速に衰えます。

『古事記』『日本書紀』では、蘇我氏がいかに横暴であったか記載されていますが、蘇我氏を滅ぼしたことの正当性を強める目的で、殊更悪く書かれている可能性もあります。

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