北条氏の執権と得宗の違いを改めて【鎌倉時代】

初期は執権=得宗(というか、だいたい同じことが多い)

執権(しっけん)は、鎌倉幕府の正式な役職です。
将軍の次に偉い人という認識で間違いないと思います。

得宗(とくそう)とは、北条氏の惣領の家系で、実際にそう呼ばれていたかはわかりませんが、幕府の役職でもなんでもありません
北条一族の長という感じでしょうか。

初期は執権=得宗だったので、特に問題ありませんが、
執権ではない得宗が出たり、得宗ではない執権が出たり、
なぜか執権はお飾りで得宗のほうが実権を持ったりします。

北条時政(1138-1215)は、伊豆に流された源頼朝(1147-1199)の監視役でした。
この時代に、時政の娘、北条政子(1157-1225)と頼朝が婚姻すると、時政は後見人となります。

1180年に、以仁王(1151-1180)が平家打倒の挙兵をし、それに失敗すると、逆に平家方から源氏を討伐しようという動きが出ます。

頼朝は鎌倉幕府の初代征夷大将軍になり、時政は初代執権となります。
しかし、調べてみると、執権という言葉が出てくるのは、1203年
頼朝はすでに死んでいます。

時政に実績がなかったかというとそうではなく、
平家滅亡後の1185年、軍勢を率いて上京し、京都守護とも言える仕事をします。
このときの仕事ぶりはなかなか好評だったようです。

頼朝死後、2代目将軍源頼家(1182-1204)の時代に、有力者13人の合議制がとられます。
このときの13人中、北条氏は、時政と、息子の義時(1163-1224)の2人で、まだこのときは北条氏が目立つ存在ではありません。

得宗という言葉は、義時の別称、戒名、または追号と言われています。
泰時の系統を、得宗家といい、他の系統もあります。
名越流、金沢流、極楽寺流など、泰時の兄弟などの分家が次々生まれます。

13人による合議制も、
御家人同士の争いや失脚や病死や頼家の死去で崩壊します。

3代目将軍源実朝(1192-1219)は、当時12歳だったため、誰かが代わりに政治を行う必要がありました。

時政は、大江広元(1148-1225)と並んで政所別当となりましたが、このときに実朝や広元を抑えて、御家人たちの所領安堵などの政治をとることになります。
この状態を指して、初代執権とするのが定説となっています。

その後、時政から、義時、泰時(1183-1242)と続きますが、
泰時が将軍の代わりに裁判の評決をするようになったのが始まりで、
遡って時政を初代執権と数えるようになったとする説もあります。

北条時頼の「院政」

4代目の執権、北条経時(1224-1246)までは、北条家の得宗で、かつ、死ぬまで執権という状況だったので、そこまで複雑ではなかったのですが、
経時の弟で、5代目執権の北条時頼(1227-1263)は、
1256年に出家し、執権も辞めます。

次の執権は義兄の北条長時(1230-1264)ですが、時頼の子の時宗(1251-1284)がまだ子供で、院政を敷くためにワンポイントリリーフ的に執権を譲ったようで、実権は出家、引退した時頼が握り続けます。

これが、得宗専制政治の始まりと言われています。

北条政村(1205-1273)も、時宗が成長するまでのリリーフ的な存在として、60歳にして7代目執権となります。

その後、時宗が8代目の執権となり、得宗=執権という状態に戻ります。

時宗は、元寇(文禄の役、弘安の役)を迎え撃った執権として、日本を救った英雄と言われています。

時宗が34歳で死に、嫡男の貞時(1272-1311)が8代目の執権と得宗を継ぎます。

1285年に起きた霜月騒動により、北条得宗家の執事である内管領の権力が増大し、得宗の専制体制が強化されます。

貞時の死後、得宗は9歳の高時(1304-1333)が継ぎますが、執権になるまでは他の3人の中継ぎ執権を経て、14歳で就任します。

この時代に、鎌倉幕府は滅亡するので、高時は政治を顧みないダメ執権みたいなかかれ方をしますが、次の代の為政者(この場合は足利尊氏)を美化するために誇張しているとも言われています。

得宗専制の時代は、北条氏が絶大な権力を握ったかのように見えますが、
元寇で負担だけでこれと逝った恩賞のなかった御家人の心が、
更に幕府から離れるきっかけとなり、鎌倉幕府滅亡を早めたかもしれません。

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