鎌倉時代の内紛 北条氏と御家人の対立

梶原景時の変(1200年)

源頼朝(1147-1199)の腹心だった梶原景時(1140-1200)が、頼朝死後、御家人66人の連判状により鎌倉を追放され、後に一族が滅ぼされた事件です。
北条氏による有力御家人排除の始まりと言われています。

建仁の乱(1201年)

城長茂(1152-1201)は、当初は平氏に仕えていましたが、源氏の時代になり、梶原景時のおかげで御家人となります。
景時に恩義を感じていたのか、景時の死後の1201年、京都において幕府打倒の兵を挙げます。
後鳥羽上皇に、幕府不討伐の宣旨を要求しましたが、宣旨は得られず、最期は吉野にて討たれます。

比企能員の変(1203年)

2代目将軍、源頼家の乳母父であり、舅でもある比企能員(ひき・よしかず)が、将軍を支える存在となります。
能員の娘である、若狭局は、頼家の嫡男一幡(1198-1203)を生み、比企氏の権勢が強まります。
比企氏の台頭を恐れた、北条時政により、比企一族は滅ぼされます

畠山重忠の乱(1205年)

武蔵国の有力御家人、畠山重忠(1164-1205)が、北条時政の謀略により滅ぼされた事件で、武蔵国は北条氏の支配下に入ります。

泉親衡の乱(1213年)

泉親衡(いずみ・ちかひら 1178-1265)が、頼家の遺児、千寿丸を擁立し、幕府に反乱を起こそうとしますが、未然に防がれます。

和田合戦(1213年)

有力御家人、和田義盛(1147-1213)が起こした反乱です。
鎌倉で2日間、市街戦が行われますが、幕府軍が勝ち、和田氏は滅亡します。

宮騒動(1246年)

北条光時(名越家)の反乱未遂、前将軍藤原頼経(1218-1256)の追放事件。
北条氏内部の主導権争いで、この結果得宗家の権力が強まります。

北条氏の執権と得宗の違いを改めて

宝治合戦(1247年)

執権北条氏と、頼朝以来の有力御家人三浦氏の対立
この結果、三浦氏は滅亡します。
北条時頼(1227-1263)や安達景盛(?-1248)による騙し討ちという説もあります。

二月騒動(1272年)

北条家の内紛で、謀反を企てたとして、北条時章(1215-1272)、教時(1235-1272)兄弟
北条時輔(1248-1272)が討伐されました。
謀反を企てたというのは、デッチ上げ説もあります。
この結果得宗家の権力が強化されます。
これにより、北条時宗の権力が強化されますが、元寇の非常事態に時宗が孤独な独裁者として多忙を極め、早死した原因かもしれません。

霜月騒動(1285年)

有力御家人・安達泰盛(1231-1285)と、内管領・平頼綱(1241-1293)が対立し
結果として安達氏滅亡、得宗家被官(御内人)勢力が実権を握るようになります。

嘉暦の騒動(1326年)

北条高時(1304-1333)が、執権を辞職して出家したため、後継者問題が起こります。
後継者問題を巡って、内管領の長崎氏と、外戚の安達氏が対立します。
血なまぐさい事件はなかったようですが、後任の執権がすぐに出家したり、執権のなり手が居なくなったりと、よくわからない展開になり、1333年に鎌倉幕府は滅亡します。

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