江戸時代の寿命

将軍の子供、短命が多いのはなぜ

徳川将軍の享年(数え年)は、70代が2人
60代が4人
50代が4人
40代が2人
30代が1人
20代が1人
10歳未満が1人

70代は、初代家康と、最期の慶喜
7代将軍家継は、わずか8歳で亡くなっています。
当時の平均寿命よりは、長いような印象です。

徳川家斉は、将軍在職50年、知られているだけで男子26人、女子27人いましたが、成人できたのは半数ほどでした。

徳川家慶は、男子14人、女子13人いましたが、成人できたのは、後継ぎの家定だけでした。

家康には、11男5女がいて、子供のうちに死んだのは2男2女くらいなものです。

時代に逆行している気がしますが、天下泰平の時代になり、白粉(おしろい)で化粧をするようになったこと、当時の白粉には鉛が含まれており、鉛中毒に関する知識がそれほどなく、上流階級の人たちに鉛中毒が蔓延していたかも、という説があります。

江戸時代の平均寿命 農村より都市のほうが早死に?

江戸時代には、宗門人別改帳などの人口統計があるため、経金寿命の推定などに使われています。

調査と調査の間に生まれてすぐ死んでしまった子供などは、統計に反映されないため、乳幼児死亡率などを知ることは困難ですが、平均寿命は、30~40歳台とされています。

15歳まで生きた場合の平均余命も30~40歳台で、大人になれれば50~60歳台くらいまで平均して生きられたようです。

以上は農村の統計ですが、都立一橋高校内遺跡から出土した白骨をもとにした調査では、出生時平均余命を21.3年と推定しています。

江戸などの都市では、白米を食べる習慣があり、脚気などで命を落とす人が多かったのでしょう。
脚気は「江戸患い」と言われていました。

脚気の原因が判明するのは、明治時代のことです。

現代と異なるのは、女性の方が平均寿命が短いことです。
当時は、妊婦の死亡率が現在とは比較にならないほど高かったことが原因です。
明治や大正時代でも、死産の確率は、現在の100倍くらいありました。

人生50年とは言われれますが、江戸時代にも
貝原益軒は満83歳
江戸に生きた葛飾北斎は満88歳など、長生きした人は居ます。

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