倭の五王が朝貢したという、宋(420~479年)は、
南北朝時代の南朝のひとつです。
中国史上に、「宋」という国はいくつか出てきます。
春秋戦国時代に(紀元前1100年ごろ-紀元前286年)に存在した国と、
960年~1127年に存在した統一王朝(北宋)、
北宋が金に華北を侵略されて以降を南宋(1127年~1279年)といいます。
これらと区別するため、劉宋ともよばれます。
「劉氏による宋」というわけです。
その「劉宋」を建国した初代皇帝は、劉裕(363-422年)で、東晋の将軍でしたが、
399年に、五斗米道の信者が起こした孫恩の乱の鎮圧で功をあげます。
403年、桓玄が東晋の安帝から帝位を簒奪しましたが、3ヶ月後に桓玄を倒し、安帝を復帰させます。
劉裕は、一時的ではありますが、416年に洛陽を奪取し、417年には長安を奪取を奪取する功績をあげます。
420年、禅譲を受け、南朝宋をひらき、皇帝(武帝)となりました。
しかし、即位のわずか2年後、422年に武帝は崩御します。
長男の少帝が第2代皇帝となりますが、暗愚だったため、弟の文帝が第3代皇帝となり、安定した時代が30年ほど続きました。
しかし、軍事的には北朝の北魏(これも三国時代の魏とは異なる拓跋氏の国です)に劣勢に立たされています。
文帝は、453年に皇太子・劉劭に殺害され、劉劭も弟の劉駿に殺されるなど、皇室内での殺し合いが国力を削ぐ原因となりました。
東晋の時代に実力をつけた劉裕が簒奪したように、宋では蕭道成(しょうどうせい 427-482)が武功を上げて実力者となり、479年、ついに禅譲を受けて宋は滅亡、斉(南斉)の初代皇帝となりました。
中国が南北に分裂している上に、王朝が数十年で入れ替わるグダグダにみえる時代ですが、
北涼(現在の甘粛省あたり)、吐谷渾(とよくこん、現在の青海省あたり)、北燕(現在の遼寧省あたり)、高句麗を冊封下に置き、倭国からの朝貢も受けるなど、外交はそれなりに活発だったようです。