江戸幕府第13代将軍 徳川家定 年表
1824年 第12代将軍・徳川家慶の四男として江戸城で生まれる
1841年 家慶の世嗣となる
1853年 将軍宣下
1857年 米国総領事タウンゼント・ハリスを江戸城で引見
1858年 死去
生来病弱で、政務は老中・阿部正弘(1819-1857)、堀田正睦(1810-1864)が中心に行いました。
父・家慶は男子14人、女子13人と子沢山でしたが、成人まで生き残ったのは家定だけでした。
乳幼児死亡率が高い時代とはいえ、ちょっと死にすぎじゃない?
家定も、成人したとはいえ、35歳で亡くなってしまいます。
正室として鷹司政煕の娘・任子(1823-1848)や一条忠良の娘・秀子(1825-1850)を迎えますが、いずれも20代で病死しています。
その後1856年、薩摩藩より天璋院(篤姫 1836-1883)を正室して迎えますが、その後2年も経たずに家定が亡くなります。
家定は、癇癪を起こしたり、足を踏み鳴らしたりすることがあったという当時の記録より、脳性麻痺ではなかったかともいわれています。
天下泰平の時代ならそれでも良かったのですが、将軍になる数ヶ月前にペリーが来航するなど、情勢は緊迫しています。
家定に実子はなく、紀州藩主の徳川慶福(家茂)と、水戸から一橋家に入った徳川慶喜が、将軍の後継候補に上がります。
お互いに派閥抗争のようになり、家定は慶福を後継者にするという意向を伝えます。
将軍らしい行動を見せたのはこれだけである、と言われています。