少しずつできた鎌倉幕府の職制

鎌倉幕府の職制というと、将軍を執権が補佐し、
その下に鎌倉では政所や問注所や侍所があり、京都に六波羅探題を置き、
各地に守護や地頭を設置し、というシステムが
最初から最後まであるような印象がありますが、
実際には、少しずつ付け足されたり、変化したりしています。

執権の登場からして、初代将軍の源実朝死後の1203年です。

侍所(1180年)

侍所は、治安維持を司る組織で、源頼朝によって、1180年に設置されました。
長官は別当と呼ばれ、初期は和田義盛が務めましたが、和田合戦で義盛が討たれ、その後は執権が兼務するようになります。

問注所(1184年)

問注所は、裁判、訴訟を処理する機関で、1184年に設置されました。

裁判全般を扱っていましたが、次第に処理が滞る様になり、1250年に引付衆が設置されました。
東国を管轄としており、西国の問題は六波羅探題が処理しました。

さすがに、京都から鎌倉は遠すぎますからね。

しかし、十六夜日記の作者、阿仏尼は、将軍に直訴するため、京都から鎌倉に下向しています。

鎌倉時代の文学

政所(1185年または1191年)

政所は、元は親王、従三位以上の公家の家政を担当する機関で、鎌倉幕府以外にも存在します。
鎌倉幕府の政所は、1185年または1191年に、公文所から改称されたという説があります。
1185年に、頼朝は従二位に登ったため、政所を設置する基準に達しています。
一般政務・財政を司りました。

政所の長官を別当といい、大江広元が就きます。
その後は、執権や連署が兼任します。

連署(1224年)

連署は、執権の補佐役で、1224年に北条時房が任命されたのが最初です。
幕府の公文書に、執権と連名で署名したことが由来です。
連署も、執権と同じように北条氏が独占しました。

評定衆(1225年)

評定衆は、源頼家時代に作られた十三人の合議制が原型ですが、評定衆として制度化されたのは1225年です。

今で言う、立法、行政、司法の全てを司る機関です。

評定衆の長が執権で、北条氏が独占しました。

北条氏以外の御家人は、再興に出世して評定衆の席次最上位止まりでした。

鎌倉時代末期には、寄合衆が実質的な決定機関になります。

六波羅探題(京都)

六波羅探題は、承久の乱(1221年)の後に、朝廷や貴族の監視のため、京都守護に変わって設置されました。
後に、幕府のように、評定衆や引付衆が設置されます。

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