江戸幕府第12代将軍 徳川慶慶 年表

江戸幕府第12代将軍 徳川慶慶 年表

1793年 徳川家斉の次男として江戸城で生まれる

参考:江戸幕府第11代将軍 徳川家斉 年表

1837年 将軍宣下 11代将軍家斉が大御所として君臨
1839年 蛮社の獄
1841年 大御所、家斉死去
1841年 水野忠邦による天保の改革が始まる
1843年 人返しの令
1843年 水野忠邦失脚
1843年 阿部正弘、老中首座に就任
1844年 火災により江戸城本丸焼失
1844年 水戸藩主・徳川斉昭に謹慎を命じる
1851年 株仲間再興
1853年 6月3日、マシュー・ペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れる
1853年 6月22日 死去 死因は熱中症による心不全

天保の改革

先代、徳川家斉の大御所時代、子どもたちを養子に送り込むなどに費用がかかり、幕府の財政が悪化します。

危機的な状況をなんとかしようと、水野忠邦は「天保の改革」を断行しますが、庶民に娯楽の制限や贅沢の近視を強制したためか、失敗とされています。

根本的には、コメの相対的な地位が低下しているのに、なんとかコメを中心にした経済を復興させ、年貢収入を回復させようという、時代に逆行した政策だったように思えます。

「遠山の金さん」で知られる、遠山景元(1793-1855)は、水野忠邦が進める極端な改革には、町人の利益にならないものは反対したため、人気が高まりました。

水野忠邦への評判は当時から悪く、失脚後に襲撃されたりしています。

記憶力10倍アップ!歴史が覚えられない人の為の暗記法  【歴史の記憶術】 

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする