足利義満というと、鹿苑寺金閣、北山文化
くらいの知識で、高校受験は乗り切ったような・・・
他にも、
・有力な守護大名をシメる
・貿易で巨万の富を築く
などの功績があります。
足利義満(1358-1408)将軍在職1369-1395
10歳で家督を継ぎ、12歳で征夷大将軍となった義満
幼少だったため、幕政は管領細川頼之(1329-1392)
及び、足利一門の守護大名が主導しました。
守護大名をシメて権力強化
室町幕府は、守護大名の連合体的な政権で、将軍の権力はそれほどありませんでした。
義満は、有力な守護大名の弱体化を図ります。
有力な守護大名というのは、室町幕府創立の功臣で
それなりの勢力を有しています。
土岐氏は、美濃・尾張・伊勢の3カ国を有していましたが、
土岐康行(?-1404)の代に、義満に討伐されます。
これにより、土岐氏は尾張1国のみの守護に転落します。
近畿から中国地方にかけて11カ国を有し、「六分の一殿」と言われた山名氏も、
内紛に乗じて義満が挑発、これにのった山名氏側が挙兵し、
逆に討伐されます(明徳の乱)
戦後、山名氏の領国は、11カ国をから3カ国に減らされます。
6カ国を領有した大内氏も、大内義弘(1356-1400)が義満と対立し、
最終的に挙兵から敗死します(応永の乱)。
このように、謀略などを使い守護大名の弱体化に成功し、
幕府の全盛期を迎えます。
また、守護大名つぶしをしている間、
南朝の勢いは弱くなり、1392年、義満の主導で
南北朝の合体がなります。
日本国王源道義
鎌倉時代、中国はモンゴル民族の元王朝でしたが、
この頃には、漢民族の明王朝に交代しています。
室町幕府初期~東アジア関係史
1338年 | 足利尊氏が征夷大将軍に |
1351年 | 紅巾の乱 |
1366年 | 倭寇禁圧を求める高麗の使節が来日 |
1368年 | 南京で朱元璋(洪武帝)が明を建国 |
8月 | 大都(北京)を占領 |
1374年~ | 義満、明に使節を送る |
1381年 | 明、中国統一 |
1401年 | 日明貿易開始 |
元寇の後、日本と元王朝の間に正式な国交はありませんでしたが、
私的な貿易は行なわれていました。
明王朝となり、周辺国に朝貢させる政策となり、
日本もその一部に組み込まれます。
義満は、明王朝の永楽帝(1360-1424)に対し、「日本国王」という称号をもらい、
日明貿易を一元的に独占する権利を得ます。
日明貿易というと、明王朝の皇帝の臣下という形式を取るので、
義満は「土下座外交」を行ったと批判する人も居ます。
当時も公家社会を中心に、そういう批判はあったようですが、義満は名より実を取りました。
朝貢貿易は、常に上位の国のほうが出すものが多いので、
周辺国は、臣下の礼を取って貿易をするほうが得でした。
当時の船で日本から中国に行くのは、沈没や難破のリスクが非常に高かったのですが、
そのリスクに見合うリターンを求めて、
貿易により、倭寇は一時衰退し、室町時代の文化の発展に影響しました。
幕府、商人、寺社勢力がうるおいましたが、
ときの権力者、義満が相当の富を蓄積したのは言うまでもないでしょう。
北山山荘(後の鹿苑寺)の造営が1397年なので、勘合貿易開始前から
当然ながらかなりの経済力は有していたのでしょう。
14世紀末~15世紀前半の文化を、
北山文化と呼びます。