隋滅亡の原因は、煬帝(ようだい 569-618)の暴政によるもの、というのが通説となっています。
隋の歴史を書いた正史、『隋書』は唐の時代に書かれたため、唐の正当性を訴えるため、煬帝が不当に貶められている可能性はあります。
604年、文帝(楊堅 541-604)の跡を継いだ煬帝は、皇帝になってからは贅沢な生活にふけり、残酷な刑を復活させました。
100万人の民衆を動員して大運河を建設したり、3度に渡り高句麗遠征をするなど、民衆に負担を強いるなどしたため、反乱が起こるようになります。
従属していた北方遊牧民の突厥が反乱を起こしたため、煬帝自ら討伐に向かうも失敗。
李密、王世充、竇建徳、李淵(後の唐の高祖)などによる群雄割拠状態となります。
煬帝は、最初の頃は積極的に鎮圧しようとしていましたが、反乱が激しくなり、首都・大興城(長安)を放棄して、南方の江都にて反乱鎮圧の指揮を執ります。
617年には、李淵が長安を陥落、李淵は煬帝の孫・楊侑(恭帝侑 605-619)を皇帝に即位させます。
長安を失った煬帝は、江南にて酒と宴会に溺れて政治を顧みなくなり、
618年、部下の宇文化及などに殺されます。
煬帝の死を知った李淵は、恭帝侑から禅譲を受けて、唐を建国します。
煬帝は、高句麗遠征や大運河建設で民衆の反感を買って滅んだと言われていますが、
大運河は唐の時代に有効活用されていますし、唐も高句麗遠征を何度も行っています。
参考:遣隋使の目的と成果