1183年説
源頼朝(1147-1199)が、鎌倉に幕府をおいた時代、これが鎌倉時代ということになっています。
最も早い説は、寿永二年十月宣旨(じゅえいにねんじゅうがつのせんじ)という、朝廷からの文書により、頼朝が東国を支配することを認められた事をもって、鎌倉時代の始まりとする説です。
この時点では、平氏は滅亡していません。
1185年説
守護・地頭を設置
文治の勅許(ぶんじのちょっきょ)という朝廷からの命令により、
源頼朝が守護・地頭を設置することを許されます。
これにより、諸国の国衙、荘園に源氏の息のかかった武士を配置することができるようになりました。
Googleさんは、1185年説を推しています。
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1192年説
後白河法皇の死後、頼朝が征夷大将軍に就任。
これにより、鎌倉時代が始まったとする説も当然あります。
1190年に、頼朝は「右大将」になっていました。
近衛軍の司令官という性格上、京都に居なければならなかったので、
東国支配を固めたい頼朝としては、都合が悪かったようです。
そこで、右大将は半月をせずにとっとと辞めてしまい、
鎌倉に戻ります。
自らが滅ぼした平氏政権を教訓に、朝廷と距離を置きつつ、武士のための政権を固めようとした意図が見えます。
1192年なら、ゴロが良いという利点はあります。
1185年でも、「いい箱作ろう」みたいな語呂合わせがありますが、
あんまりハコモノを作っている印象はありません。
1221年説
承久の乱により、朝廷の力が衰退
幕府が、東国支配権のような権力を、西国でも揮えるようになりました。
しかし、このときには頼朝の直系が絶えてしまい、
将軍はお飾りになっています。
執権北条氏に幕府の権力がうつっているのは皮肉な話です。
年表
1181年 | 平清盛死す |
1183年 | 寿永二年十月宣旨 |
1185年 4月 | 壇ノ浦の戦い 平氏滅亡 |
12月 | 文治の勅許 守護・地頭の設置を朝廷から正式に認められる |
1189年 | 奥州藤原氏滅亡 |
1192年 | 後白河法皇死去、頼朝が征夷大将軍に |
1199年 | 頼朝死去 |
1219年 | 源実朝死去、源氏将軍断絶 |
1221年 | 承久の乱、六波羅探題設置 |
1232年 | 御成敗式目制定(武家社会初の成文法) |
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