平将門の乱とは 同じ名字の清盛との関係は

平将門の乱とは

平将門は、生年についてははっきりしておらず、903年説、889年説、884年説などがあります。

臣籍降下した高望王(=平高望 生没年不明)の孫でしたが、高い官位には就けませんでした。

高望王の子孫を坂東平氏といいます。

下総国豊田郡、猿島郡(茨城県南西部)が本拠地とされています。

平将門の乱の原因については諸説ありますが、もともと国家への反逆を計画したものではなさそうです。

935年(承平5年)2月に、源扶に襲撃されますが、撃退し、源扶の父、源護の居城を襲撃し、平国香(将門の叔父)を焼死させます。

このときの抗争については、将門が平安京で取り調べを受けますが、朱雀天皇元服の大赦により、罪を許されます。

関東に戻った後、平良兼(将門の叔父で国香の弟)などと対立していた将門は、当初は劣勢でしたが、良兼の病死などで、将門は関東に名を轟かせます。

これまでは一族内の小競り合いという感じでしたが、朝廷から派遣された常陸国府軍と戦闘になったため、常陸国府を陥落させ、印綬を没収します。

さらに上野国(現在の群馬県)の国府を落とし、940年に、「新皇」を自称し、下総国岩井(茨城県坂東市)に政庁を置きました。

平貞盛(国香の子)が藤原秀郷とともに将門討伐の兵を集めているという情報を得た将門は、先制攻撃を仕掛けますが、最終的には敗れて討ち死にしました。

討ち死にした将門の首は、平安京でさらし首となりました。
歴史上に残る確実な最古の晒し首が将門と言われています。

将門と清盛は親戚?

平将門の乱から200年ほど後の時代、平氏政権の時代が来ます。
その中心だった、平清盛は、将門の乱を鎮圧した平貞盛の6代子孫(昆孫)です。

将門と貞盛はいとこ同士ですが、いとこのひ孫のひ孫まで行くと、ほぼ他人と行っても過言ではないでしょう。

現代の民法では、6親等までが親族ですが、現代的な計算方法では、将門と清盛は10親等ということになります。

大きいくくりでは、将門も清盛も桓武平氏ですが、将門の孫の平忠常を祖とする房総平氏に別れ、貞盛の子の平維衡を祖とする伊勢平氏となり、清盛までつながっていきます。

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