帰れなかった阿倍仲麻呂
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ 698-770)は、
717年、多治比縣守(たじひのあがたもり 668-737)が率いる第9次遣唐使に同行し、唐の首都、長安に留学しました。
参考:遣唐使はいつからいつまで
同時に、吉備真備(きびのまきび 695-775)、玄昉(げんぼう ?-746)、井真成(いのまなり 699-734)などがいました。
留学生と行っても、ただ学問をしていただけではなく、唐の朝廷に仕えました。
当時の唐の皇帝、玄宗(685-762)に仕え、李白(701-762)などの詩人とも親交があったようです。
733年、第10次遣唐使の帰国の際、吉備真備、玄昉は帰国しましたが、阿倍仲麻呂は自分の意志で帰国しませんでした。
その後、帰国のチャンスが有りましたが、運悪く船が漂流するなどして、帰国はかないませんでした。
唐の皇帝、玄宗・粛宗(711-762) ・代宗(726-779)の3代に仕え、770年に唐にて死去。
人生のほとんどを、唐で過ごしました。
歌人としての阿倍仲麻呂
『今昔物語集』や『古今和歌集』に、
「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」
という歌が、阿倍仲麻呂作として採用されています。
『古今和歌集』の「後序」によると、753年に唐から帰国するときに、明州で歌ったとされていますが、不審な点もあると言われています。