江戸時代には、ヨーロッパとの交流をオランダに限っていたため、オランダ経由で入ってくるヨーロッパの学問を「蘭学」と言いました。
幕末になると、「洋学」という言い方に変わっていきます。
西川如見(1648-1724)は、長崎の商家に生まれ、『華夷通商考』という本を書いたり、将軍、徳川吉宗から天文学に関する下問を受けています。
青木昆陽(1698-1769)、野呂元丈(1694-1761)は、徳川吉宗からオランダ語の習得を命じられます。
「和蘭(オランダ)文訳」「和蘭文字略考」「阿蘭陀本草和解」などの著書を残しました。
前野良沢(1723-1803)は、中津藩の藩医、蘭学者で、青木昆陽に師事し、杉田玄白(1733-1817)、とともに、1774年に「解体新書」を発行しました。
「日本最初の本格的な西洋医学の翻訳書」「日本最初の、西洋医学書の翻訳書」「西洋科学書の日本最初の本格的な翻訳書」「日本最初の西洋解剖学訳述書」などと言われています。
杉田玄白は、晩年の1815年、「蘭学事始」という手記を書きました。
平賀源内(1728-1780)は、発明家として有名ですが、本草学(医学)、俳諧、オランダ語、医学、油絵など、いろいろなことを学んでいます。
土用の丑の日にウナギを食べる風習は、平賀源内が広めたとも言われ、日本初のコピーライターともいわれています。
伊能忠敬(1745-1818)上総国の名主の家に生まれ、1762年、下総国佐原の酒造家、伊能家に婿入りします。
1795年に隠居したあと、50歳の忠敬は、31歳の天文学者、高橋至時(1764-1804)に弟子入りします。
ティコ・ブラーエ(1546-1601)やヨハネス・ケプラー(1571-1630)などの、西洋の天文学も吸収します。
1800年、忠敬と至時は、蝦夷地(北海道)の測量を開始します。
その後、1815年、10度に渡り日本全域の測量をします。
実際に地図が完成したのは、忠敬の死後、1821年のことでした(『大日本沿海輿地全図』)。
司馬江漢(1748-1818)は、江戸の町家で生まれ、15歳で狩野派の絵師に学びます。
後に、平賀源内と会い、小田野直武(1750-1780)から洋画を学びます。
1783年に、日本初の銅版画『三囲景図(みめぐりけいず)』を制作しています。
天文学、地理学にも興味を持ち、『和蘭天説』や『刻白爾(コッペル)天文図解』などで、地動説を日本に紹介しています。