義経はかわいそう、頼朝は陰湿?

判官びいきの語源ともなった源義経

平家滅亡の立役者
軍事の天才
それなのに、兄のよりともに殺された
みたいな悲劇のヒーローっぽいイメージがあります。

後世の創作は数限りありません。

頼朝挙兵後、頼朝のもとに馳せ参じた義経は、
異母兄の源範頼(みなもと の のりより 1150-1193)とともに
平氏追討に赴きます。

一の谷の戦い

屋島の戦い

壇ノ浦の戦いと、散々に打ち破り、義経は平家を滅ぼします。

義経が軍事の天才であり、義経がいなければ、こんなに早く平氏を滅ぼすことはできなかったでしょう。

頼朝は、鎌倉にいて、平氏との戦いの場にはいません。

平氏滅亡までは、義経を都合よく使ったのに、用が済んだらポイか、という気持ちもわからないでもありません。

後世において、義経のほうが人気があり、頼朝はなんとなく陰湿なイメージが有るのは仕方がありません。

しかし、戦争では天才的な活躍をした義経は、政治的センスが致命的に無かったと言えましょう。

戦術的には天才、しかし戦略的、政治的には?

木曽義仲が京都を攻めたとき、
平氏は、安徳天皇(1178-1185)とともに、京都を脱出しました。
三種の神器は、平氏方が持っています。

安徳天皇は、平清盛(1118-1181)存命中に、清盛により即位させられました。

京都に天皇が不在となり、後白河法皇(1127-1192)は、安徳天皇の異母弟である4歳の尊成親王=後鳥羽天皇(1180-1239)を即位させます。
このときの救いは、「神器なき即位」と言われています。

2年ほど、安徳天皇と後鳥羽天皇という、2人の天皇が同時に存在したことになります。

壇ノ浦の戦いの結果、安徳天皇は、清盛の側室、二位尼と一緒に入水します。
そのときに、安徳天皇の命と、三種の神器のうち、天叢雲剣(草薙剣)が失われてしまいます。

これにより、頼朝が激怒したというのが通説です。

平氏滅亡後、京都に凱旋した義経は、

頼朝は、安徳天皇と三種の神器を無事に手に入れ、後白河法皇との有利な取引ができるよう戦略を建てていました。
父の敵なので、平氏が滅ぼそうが滅ぼすまいが、どうでも良かったとは言いませんが、目標としては二の次のはずです。

また、頼朝の許可無く官位を受けたことや、独断専行が目立つことなど、
官位の問題は重大で、武家の棟梁の弟が朝廷から官位を受けるんだったら、他の武士も朝廷から官位を争って受けようとするはずです。

そのようなことは、少しずつ朝廷から武士に権限を移そうという頼朝やそれを支持する東国武士団の意思を踏みにじる行為でした。

頼朝は、義経および、同時に官位をもらった御家人の鎌倉入りを禁止します。

京都に戻った義経は、頼朝の刺客に急襲され、頼朝に反旗を翻します。

頼朝追討の院宣を得たものの、義経に味方する勢力は少なく、
その後、逆に義経追討の院宣が出され、奥州藤原氏を頼って東北に落ち延びました。

奥州藤原氏の当主、藤原秀衡(1122-1187)は、頼朝軍が攻めてきたときの将軍として義経を用いようとしましたが、あとを継いだ藤原泰衡(1155-1189)は、義経を匿っていると頼朝軍が攻めてくることを恐れ、義経を討ち、頼朝軍の攻撃をかわそうとします。

しかし、頼朝は義経を許可なく討伐したことを理由に、奥州藤原氏を滅ぼします。

完全なだまし討ちですが、義経を口実に奥州藤原氏を滅ぼすことにより、
武士の代表者としての地位を固めたと考えると、
稀代の政治家であると言わざるを得ません。

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