平治の乱とは、平治元年12月9日(1160年1月19日)に勃発した政変です。
乱が勃発した、元号から取られています。
保元の乱に勝利した後白河天皇サイドでは、側近の信西(藤原通憲)が実権を握ります。
信西は、保元新制(ほうげんのしんせい)を発し、荘園整理などの政治改革を行いました。
信西は、平清盛などの平氏を厚遇します。清盛の兄弟で4カ国の受領となるなど、平氏の勢力が拡大しました。
1158年、後白河天皇が二条天皇に譲位し、上皇となります。
その前後に後白河上皇の寵臣となった藤原信頼(1133-1160)は、信西と対立します。
平治元年12月9日(1160年1月19日)に、平清盛が一族を引き連れ熊野詣に出かけると、藤原信頼は源義朝などを味方に引き入れ、院御所・三条殿を襲撃しました。
後白河上皇の身柄を確保した後、信西を捕らえるために、逃げるものは容赦なく、一般官人や女房なども犠牲になります。
このとき、信西は三条殿から逃亡していましたが、追手に見つかり自害します。
信西の死後は、僅かな期間ですが信頼の天下となります。
熊野詣の途中で京都での異変を知った清盛は、紀伊の武士や伊賀・伊勢の郎等とともに帰京します。
反・信西で結託していた貴族たちも、信頼から離反し、後白河上皇も脱出することにより、清盛は信頼、義朝追討宣旨の大義名分を得ることになります。
清盛は、六波羅で義朝軍を破り、信頼は処刑、義朝は東国に落ち延びる途中、尾張国で殺害されます。
平氏に対抗する武士や、藤原摂関家の没落により、武士の時代への流れが決定的になります。