保元の乱とは 武士が台頭するきっかけ

保元の乱は、1156年(保元元年)に起きた、皇位継承問題などの内紛による武力衝突です。
主力は武士だったため、政治の実権が朝廷から武士に移るきっかけになった事件と言われています。

皇族も藤原氏も武士も、兄弟や親子で反対の陣営に別れ、
日本史上の内戦でも悲惨な部類に入ります。

このときは、武士が源氏と平氏に分かれていたのではなく、
後白河天皇方と崇徳上皇方の両方に源氏と平氏が味方しました。

保元の乱 勝者と敗者の相関図

勝者 敗者
後白河天皇(1127-1192)弟 崇徳上皇(1119-1164)兄
藤原忠通(1097-1164)兄 藤原頼長(1120-1156)弟
平清盛(1118-1181)甥 平忠正(?-1156)叔父
源義朝(1123-1160)子 源為義(1096-1156)父

実際の戦闘は、平清盛、源義朝などの武力により、後白河天皇側が1日で勝利します。

敗者側の処遇は、崇徳上皇が讃岐国に流罪
藤原頼長はや傷が元で死亡
頼長の子どもたちは流罪
上皇側についた武士は、源為義など、多くが死罪となりました。

死刑の復活は、810年の薬子の変以来、356年ぶりとなりました。

死刑の復活は、信西(藤原通憲 1106-1160)によるものとされ、保元の乱後、信西の権力が増大しますが、1159年の平治の乱により、信西も敗れることになります。

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