鉄砲を伝えたのは中国人倭寇?
1543年、種子島にポルトガル商人が乗った明船が漂着しました。
100人あまりとだれも言葉が通じませんでしたが、
同乗していた明の儒者・五峯と筆談することができ、ポルトガル商人が鉄砲を持っていることがわかりました。
筆談した儒者というのが、後期倭寇の頭目、王直(?-1560)と言われています。
倭寇というと、日本人の海賊というイメージですが、
16世紀ころには、ほとんどが中国人でした。
当時の明王朝は、海禁政策を取っており、貿易がご法度だったためです。
明王朝の海禁政策を逃れるために、五島列島に移り、戦国大名の松浦隆信(1529-1599)に招かれ平戸に移住しました。
このときも、漂流したのではなく、貿易目的で来たという説もあります。
種子島時尭(1528-1579)は、このときに、ポルトガル商人から火縄銃2丁を購入し、
刀鍛冶・八板金兵衛(1502-1570)に命じて、火縄銃を製造させます。
この時代、種子島氏は、大隅国の根占氏と、屋久島を争っており、新兵器に早速飛びついた格好です。
日本で、鉄砲が初めて実戦に投入されたのは、1549年、加治木城攻めで、
島津軍の伊集院忠朗と言われています。
遅くても1549年には、堺の顕本寺に鉄砲が送られており、
1550年、畿内で起こった中尾城の戦いで、鉄砲が使われた記録があります。
キリスト教の伝来はこの頃です。
長篠の戦いで、織田信長(1534-1582)が用意した鉄砲1000挺のうち、500挺
は、近江国、国友産と言われています。
刀鍛冶の伝統があった日本では、一度鉄砲の製造に成功すると、比較的広まるのが容易だったのでしょう。
根来寺の僧兵、根来衆(ねごろしゅう)や、紀伊国の地侍などで構成された雑賀衆(さいかしゅう)は、数千挺もの鉄砲で武装した傭兵集団となりました。
寺社勢力がなぜ鉄砲という物騒なものを、というのが現代の感覚ですが、
当時は、自分たちの身を守るために、寺社勢力も武装しておりました。
大寺院は、大名並みの国力を有しており、幕府の力が衰えた戦国時代ならなおさらでしょう。
織田信長は、堺を直轄地とします。
火薬の原料である硝石の輸入港として重要でした。